今夜の花火終わるまで

関ジャニ∞が好きな人のただの日記です。

思い出にもならずに君はここにいる

2019年9月30日。

 


今日という日が訪れるまで、時間は足早に過ぎ去ったように思うのに、とてつもなく長いトンネルを潜っているような気もした。亮ちゃん。今日は、アイドルとしての、ジャニーズとしての、錦戸亮という人の最後の日でした。

あなたへの気持ちを書くのは、きっと今日が最後になります。だから、最後の手紙を書くつもりで、今の想いを綴らせて下さい。

 

 

 

錦戸亮という人は、才能と運命に愛されたセンスの人です。何もない場所で0から1を生み出す事が出来る人もいれば、その1を100に変えることが出来る人もいます。亮ちゃんは、そのどちらをも賄えてしまう人でした。天才って、きっとこういう人なのだろうと思えるほどに、なんでもやってのけてしまうような。
歌うことも、踊ることも、演技をすることも、曲を作ることも。常人には到底及ばない圧倒的なセンスがそこにはありました。それは誰にも真似できない、錦戸亮という人だからできる事でした。

 


亮ちゃんに出来ない事もありました。人見知りで一人で現場に馴染んでいけないこと、番組でトークを回したり無茶振りを切り返すこと、魚の骨をうまく取れないこと、対人関係はこと不器用で口下手で素直になれないこと、かと思えば、思ったことをすぐ口に出してしまうこと。錦戸さんとはあまり話さなかったと共演者の方に言われて苦笑いする事もしばしば。番組進行はほぼやって来なかったので、いざやればカンペ丸読みな進行をしてしまう。俺は苦手やから、できないから、だからメンバーがいると安心すると話す。番組で出た魚の骨も、取って欲しいとメンバーに甘える。恥ずかしがり屋なあまり、素直にその想いを口にする事もあまりなかった。それでも間違ってると思ったことにはきちんと抗って、絶対に筋を曲げなかった。

 


でも亮ちゃんに出来ない事なんか、多分なかったんです。とても器用な人なので、きっと何でも出来ます。人見知りで口下手でも、時間こそかかりますがちゃんと相手と対峙できる人でした。自らコミュニケーションを避けて、必要な関係を捨てて通る人ではありません。トークも返しも、そのうまく立ち回れない感じが素直で可愛くて、面白くもありました。バラエティでタイミングに愛されて奇跡を連発する人でした。魚の骨の取り方も自分で調べるし、今では魚も捌けます。思ったことはすぐ口にしてしまっても、自分の信念に反することには納得しない一貫した姿勢の現れでした。

 

亮ちゃんに出来ない事なんか、きっと一つもないんです。

 

 

 

 


天才だ、センスがあると書きましたが、才能やセンスだけで成り立つ仕事ではありません。

 


錦戸亮という人の根っこには、恐ろしい量の努力が埋まっています。あんな膨大な仕事量は才能だけでこなせるようなものではありませんでした。それなのに、その努力が見えないように土の中にすべて埋めて隠してしまう人でした。多分、頑張ってるね、とか、大変でしょ?って、言われるのが嫌いな人でした。そんな亮ちゃんが、関ジャニ∞の中で少しだけ荷物を降ろしてくれているように見えて、そんな所もとても好きでした。

 

 

 

8周年の時、今後の関ジャニ∞について聞かれて「展望を考えるっていうよりも、この先はいつどうなるか分からへんからっていう思いで毎日やってる、俺はね。それは悪い意味じゃなくて、何事にも絶対終わりが来るとは思うから、その時に全員が「終わりにしよ!」って満足して言えるように」と話していた事がずっと心に残っています。

あの時、まさか今日みたいな日が来るなんて思っていなかったけど、多分本人も想像だにしていなかっただろうけど、いつ終わりが来てもいいように、今日まで一つの弱音も吐かずに生きてきたんだろうな。その言葉の後に付け足した、「だってそれは、死ぬほど頑張った人間だけが言えることやと思うから。」という言葉がすべてでした。

 


誰が見たって、どう考えたって、錦戸亮というアイドルは「死ぬほど頑張った人間」でした。

 

 

 

 


大倉くんが「チャレンジの方向性の違いです」と言ったように、「もう好きや嫌いなんて感情を超えたメンバー」という言葉が綴られたように、亮ちゃんが関ジャニ∞を嫌いになってこの場所を去るんだろうなという気持ちは微塵もありません。好きだからここに居るとか、嫌いだから離れるとか、もう関ジャニ∞はそういう次元の人達ではない。そう思える根拠は、今まで自分の目で見てきた関ジャニ∞錦戸亮に他なりませんでした。

色んな顔を見てきました。関ジャニ∞の中で歌って踊って、笑って、泣いて、怒って、ふざけて、はしゃいで、息をしている錦戸亮という人を、ずっと見てきました。関ジャニ∞としてステージに立って、ギターを鳴らして、マイクを握って、楽しそうな顔で関ジャニ∞のことを見つめる錦戸亮という人を。甘えん坊で、照れ屋で、寂しがりで、強がりで、素直じゃなくて、不言実行で、少し歩き方が変で、偏食で、笑った顔が小さい時から変わらない、そんなアイドルを、ずっと見てきました。

横山さんにステージ上でどうしてもバナナジュースを飲んで欲しくて、衣装もろくに着ない状態で作りたてのバナナジュースを息を切らせて持ってきたあなたが好きでした。雛ちゃんに鼻をかませてもらったり口元を拭いてもらったり魚の骨を取ってもらったりお世話される事に慣れすぎて、新幹線の隣の座席でオレンジジュースだけを飲んでいた自分に「亮、腹減ってないか?」と心配してくれなかった事に凹むあなたが好きでした。渋谷さんとの嬉しかった事のエピソードで、麺の端が焦げたたらこスパゲティを作って食べさせてくれた事を延々話すあなたが好きでした。丸ちゃんと同じ高校に行きたくて、2時間かけて通学していたあなたが好きでした。安田くんに「亮は人見知りで寂しがり屋やけど、人一倍優しいよね」と言われて泣いてしまうあなたが好きでした。いきなりドッジでやたらと大倉くんから狙われるから「俺大倉に嫌われてるんかな?なんかしたかな?」と寂しくなるあなたが好きでした。

だから「なんでもっと関ジャニ∞に居てくれなかったの」なんて言えません。そりゃあ、ずっと居てくれたら嬉しいけれど、寂しくない悲しくない訳ないけれど。こんなに関ジャニ∞の事が好きな人の決意を、こんなに頑張った人の決意を、止めることなんて出来ません。

 


亮ちゃんの人生は、亮ちゃん以外の誰のものでもありませんでした。それは、関ジャニ∞全員に言える事です。

 

 

 

 


関ジャニ∞の事を「幼馴染みたい」と言っていましたね。この言葉が好きでした。

幼馴染は、いつか離れ離れになっても、学校や職場が違っても、住んでいる場所が遠くなっても、喧嘩しても、きっと死ぬまで幼馴染です。夢や未来や進んでいく先が別れても、十数年ぶりに再会して、昨日の続きのようにまた同じ話ができるのは、友達でも家族でもなく、同じ記憶を共有してきた幼馴染だけです。だから、この言葉が好きでした。

 

 

 

 


9月5日、あの発表があってから初めて聴いた関ジャニ∞の曲が「夕闇トレイン」でした。今までそんな事感じた事なかったのに、あの日からこの曲は私にとって亮ちゃんの事を歌っているように聴こえてなりません。「濁した言葉尻の理由も聞けなかったな  でも時刻表通りにあの列車はやってくる」亮ちゃん本人の口から、明確な理由を聞くことはなかったけれど、毎日は進んで、カレンダー通りに今日という列車はやってきました。

まだ行かないで欲しかったな。まだここで笑っていて欲しかったな。そんな事を思えてしまうほどに、関ジャニ∞の中で笑うあなたが好きでした。「抜け殻になるほどに  君を想っていたんだ」「悲しいのに涙は  こんな時に限って  出てこないや」あの日から抜け殻のようになって、涙も出なくて、いつか訪れる今日をただただ待つことしか出来ませんでした。

 


あなたが笑っていた日々を、まだ過去には出来ないでいます。例え今日が最後でも、あなたが関ジャニ∞にいた毎日を、私はまだ、思い出にすることは出来ません。

いつか、8人の関ジャニ∞を宝箱に仕舞った時のようになるまで。7人の関ジャニ∞を手の中に握りしめて進んでいく事を決めた時のようになるまで。いつかそう思えるようになるまで。夕闇の中に消えていく列車の明かりが見えなくなるまで、アイドルだった、ジャニーズだった、関ジャニ∞の中にいた錦戸亮という人の姿がこのプラットホームから見えなくなるまで。ここに立って見送っていたいなと、思います。

 

 

 

 

 

 

 


亮ちゃん、幸せになって欲しいな。

好きな事をして、好きに生きて欲しいな。

あなたの人生です。

 

 

 

一つだけ我儘を言っても良いなら、たまにでいいから、関ジャニ∞の中で歌っていた日のことを、笑っていた日のことを、思い出してまた笑って欲しいな。

 

 

 

 


今日まで本当にお疲れ様でした。

そして、沢山の気持ちをありがとう。

大好きだったよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

違う、これからも大好きです。

 

 

 

2019.9.30.