今夜の花火終わるまで

関ジャニ∞が好きな人のただの日記です。

「生きてる僕ら」を紐解く

先月、8月9日に49枚目のシングル「オオカミと彗星」がリリースされた。カップリング曲も多種多様で、どれも今の彼らが歌うからこそしっくり来る曲ばかりである中で、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤さんからの楽曲提供曲、「生きてる僕ら」がある。

2004年にデビューし、来年で20周年。今年19周年を迎える彼らと、この楽曲がこのタイミングで巡り会った意味を今一度考える。グループのために書き下ろされた、「生きてる僕ら」を紐解きたい。

 

 

 

 

日々の悩みを抱きかかえて

陽が昇るまで語り明かしても

僕らの思いはドバッて溢れ出すほど

よくある形には収まらないもの

 

 


苦節何年という表現があるが、そこに彼らの歩みを当てはめるには、あまりにも言葉の器の大きさが不足している気がする。彼らに限った話ではなく、人は19年も同じ事を続けていたら色々な事と遭遇する。別れも、理不尽も、涙も、悩みも、挫折も。それと同じくらいもしくはそれ以上の出会いや、喜びや、昂りも。

一つひとつの思い出や気持ちを1枚の紙に具現化した時、その1ページは1ミリにも満たないが、毎日それらが積み重なり19年分の分厚さになった時、本はきっと閉じられない程になっているし、その内容は一晩でなんかとても語り明かせない。


色々なことがあった。

それは、表に出ていて私達が知っている事も、彼らだけが知っていて、きっとこの先も公には知らされる事はないだろう事も。むしろ、殆どがきっと知らない事ばかりだ。

私達が知っているほんの少しほんの一部ですら、決まりきった形に綺麗に収まるようなものではない事は、容易に分かる。彼らの19年のすべてが、既存の何かの形に収まる事はまずないだろう。

それくらい彼らの19年は、波瀾万丈でありながら、笑い声が絶えない19年だった。

 

 

 

頬を伝った涙の跡

夜の風がさらっと撫でて

気づかぬ間に乾いてしまっても

 

 


笑い声が絶えない、というのは語弊があるかもしれないが、絶えた瞬間だってきっとある。

決して表立って涙を見せたりなんて事は少なかったが、それぞれが思い悩み、涙して、苦悩し、未来を迷った瞬間だってきっと、幾度もあったはずで。

気付かない間にその涙が乾いてしまった、と歌詞は続くが、ここでいう「夜」の意味を考えたい。この曲には「夜」という単語が何度も使われている。言葉の通り「夜の風」と受け取ると、人が居ない真っ暗な闇夜を静かに吹き抜ける優しい風、というイメージだが、きっとそういう抽象的な話ではない。

夜は一日の終わりを指す。夜になり陽が沈めば、必ずいつか朝が訪れて次の一日が始まる。けれど、彼らが19年踏ん張ってきた世界では、次の一日が保証される事は絶対にない。夜は明けないかもしれない、そんな世界で19年、彼らは朝を迎え続けている。

「夜の風」が「さらっと撫でて」。夜の風は涙の跡に同情する事も、慰める事もなくあっさりと吹き抜ける。そんな僅かな風で、すぐに涙の跡が乾くはずもない。「気づかぬ間に」というのは、一晩ですぐに乾いてしまったわけではなく、幾つもの夜をかけて少しずつ涙が乾き、いつ乾いたか分からないほどの時間の経過を示唆しているのではないか。そんな風に受け取れる。

 

 

 

夢のなかで

僕らは生きて

いつか夜に

魔法が溶けて

思い出したように大人になってさ

多くのことを忘れてしまう

 

 


彼らが生きてる世界を比喩で表した時、最も近い言葉が恐らく「夢」なのだと思う。

ああなりたい。こういう事がやりたい。そう思って全員が幾つもの夢を目指し、励み続ける。叶えた先で横並びになり大きなステージに立ち、埋め尽くされた客席と、光と熱の渦に圧倒される。ただ、夢はいつまでも続かず、覚める時が来る。夢はシャボン玉のようなもので、ずっと見ていたい程綺麗な色で光り、向こう側まで透けて見え、ふわふわと高くまでよく飛ぶのだが、何の前触れもなく目の前で突然割れて消えてしまう。

そんな不確定な存在の中で「僕らは生きて」いると歌う。


また歌詞の中に「夜」が出てくるが、先述したように「夜」は一日の終わりを指す。次の朝が来るかも分からない、保証もされていない「夜」を指す。「いつか夜に魔法が溶けて」。いつか夢の魔法が溶ける夜が訪れる。それがいつかは分からないけど、魔法は不思議と時間を隠すからこそ、夢が溶けた瞬間一気に時計の針は回り出して、思い出したように大人になる。彼らも、彼らを見ている私たちも。時間の経過とともに確実に年齢を重ねている筈なのに、魔法が効いている間はずっと楽しくて、ずっと夜が終わらなくて、針は止まったままである気さえする。けれど魔法の効果が終われば、夢は覚めて時計の針が進んだ分だけちゃんと大人になり、捲られたページ分の重さが途端にのし掛かる。

大人になり、全部忘れる事はなくても、だんだんと、取りこぼし、忘れていってしまう。人間は、そういう生き物だから。

 

 

 

それでも確かに

僕らは生きて

こんな夜に

魔法をかけた

綺麗さっぱり忘れてしまっても

僕らは君の何処かで光るから

 

 


「夢」という不確定な言葉に対峙するように続く「確かに僕らは生きて」という歌詞。

こんな夢の中でも確かに彼らは生きてきて、決してふわふわと浮遊したまま、地に足が着いていない訳ではない。「こんな夜」は、今まで過ごしてきた色々な夜の事を指すのだと思う。もうダメかもしれないと思った夜や、全員で未来について語り合った夜や、ステージ上からの景色を見て終わらないでと願った夜に、「また朝が来るように」「まだこんな夜が続くように」と魔法をかけ続ける。

そして、魔法をかけ、魔法にかけられているのは彼らだけではない。彼らの夢は、彼らだけのものではなく、同時に彼らを応援している人の夢でもある。「好き」の魔法の熱をずっと同じように燃やし続けるのは容易な事ではない。その人なりの応援のペースや距離感、好きに対峙する気持ちがあり、それぞれにどこかで折り合いをつけなければいけない瞬間や、離れていかざるを得ない場面が生まれていく。かつて彼らを好きだった、どこかの瞬間に少しでも人生が交わった人達へ、「綺麗さっぱり忘れてしまっても」。夢が覚めた直後はその内容をよく覚えているけど、時間が経つごとに記憶は曖昧になっていく。その夢を綺麗さっぱり忘れたとしても。彼らはその人達や遥か先の夢が覚めた先でも生きていく私達の、心や、人生や、思い出の片隅で光るからと、そう歌う。

 

 

 

見知らぬ誰かが隣にいて

似たような思いを歌に託してる

重なった思いも隔たった言葉も

お互いにどこかでわかっていることだよ

 

 


この歌詞から、コンサートの場面を想像する。

隣が見知らぬ誰か、なんて事もよくある事で。顔も名前も住んでる場所も、生き方も考え方も知らない誰かだけど、きっと今聴いているこの曲に、同じような思いを託している。話した事もない人と近く、同じ思いでいる。それって、本当はすごい事なんだと思う。

言葉や表現は違っても、どこかで願いたい思いや大切にしたい部分は似ていて、確認しなくたって彼らを好きでいればそれが自然と答え合わせになる。ここで言う「お互い」は明言されていないが、明言されていないからこそ、彼らと私達、もしくは、私達ファン同士を指す事だってできる。

 

 

 

夢のなかで

僕らは生きて

我に返っていつかは

さよならを知らなきゃいけない

その日が来るまでここで歌うから

辛いときには僕らを呼んでよ

 

 


夢は終わる。いつ終わるかなんて、夢の中では分からない。夜眠る時に夢を見ながらにして、現実の時間を知る事は出来ないし、もうすぐ朝が来て夢が覚めるのか、まだまだ夜中でもう少し夢を見ていられるのかなんて、誰にも分からない。

その事に対して「決して夢は覚めない」「終わらない」と魔法を歌い続ける訳ではなく、「いつかはさよならを知らなきゃいけない」という現実的な歌詞。分かっている。どんな物事もどんなグループもどんな夢もいつかは終わるし、いつかは別れを告げる時が来る。生きている以上、永久的に何かを続ける事は不可能だ。だからこそ、それを悲しい、嫌だ、見たくないと抗う訳ではなく「その日が来るまでここで歌うから」「辛いときには僕らを呼んでよ」なんて。それに真正面から立ち向かう言葉。


彼らは、いつもそうだった。どう考えたって本人達が1番辛いであろう瞬間も、こちら側に気を遣い、励まし、言葉を送り続けてくれた。1つの頑張れ、を送ったら100倍になってその言葉が返ってくる人達だった。けど、強がりでも何でもない。本当に辛いだろう時ですらあっけらかんと笑って、今まで集めた武器を背負って、また何度でも立ち上がって壁を壊す。

夢の中だけど、決してその言葉や姿勢は夢ではない。確かに彼らが生きてる証は、彼らに関わった全ての人の心に、少しずつ残り続ける。この歌詞を真正面から歌える人達の生き方だと思う。

 

 

 

夢のなかで

僕らは生きて

いつか夜に

魔法が溶けて

思い出したように大人になってさ

多くのことを忘れてしまう

 

それでも確かに

僕らは生きて

こんな夜に

魔法をかけた

綺麗さっぱり忘れてしまっても

僕らは君の何処かで光るから

 

 


魔法はいつか溶ける日が来る。その日が最後の夜だって、きっと来る。けど、魔法が溶けても、夢が覚めても、彼らと一緒に夢の中にいた事は忘れない。

あの時も、この時も、一緒に見てきた景色は同じだったから。ただの趣味というには、あまりにも時間を共にし過ぎたと思う。彼らを好きでいる中で、知らない場所へ赴き、新たな人と出会い、縁や思い出は増えていった。

彼らだけじゃなく、私達が手にする本も1ページずつの厚みはどんどん積み重なり、もう閉じることは出来ない。別にまだ本棚に戻す予定もないし、ずっと気が済むまで手元に開いておけば良い。ページを適当に捲るたびに、彼らを通して増えた全ての気持ちをまたすぐに見返して、これから新たに増えるであろう、まだ白紙のページに胸を躍らせる事だって出来る。

 

いつか終わる。

でも、まだ終わっていないから。

 

 

 

19年も経つのに、まだまだ青春の、夢のど真ん中で。魔法という名の努力を重ね、夜を朝へ変え続けて。まだまだ割れることのないシャボン玉は、手の届かない高さまで昇って、向こう側に見える空の色がどんどん変わっても、音楽に寄り添うようにして楽しそうにふわふわと飛び続ける。

目まぐるしく変わりゆく環境の中で、大切な事を抱き締めて、変わることのない笑顔で笑ってくれる。いつまで経っても、いつまで経っても。


厚みを増やし続け、もう閉じることのできない本は今日もまた夜の風にページを捲られて、誰かの心の中で思い出を呼び起こして光る。

彼らにとっての最後のページが付け加えられても、誰かにとっての最後のページが付け加えられても、その足跡が過去になる事はない。彼らは過去とか今とか未来とか、つまらない名前だけの時間軸なんか飛び越えて、いつでも誰かの心の中で生きている。

 

 

 

 

彼らにとっての、私たちにとっての。

あなたにとっての、誰かにとっての。


もう、手元の「好き」という箱に詰め込みきれないほど、両手に抱え切れないほど大きくなったそれは、何と呼ぶのが相応しいのか。色々な気持ちを教えてくれ、考えさせてくれ、認めてくれ、抱き締めてくれた。今日も新たなページが捲られて、どこかで笑い声が聞こえる気がする。

 


きっと、関ジャニ∞は人生なんだと思う。

19周年おめでとうございます。

 

今日は、6,940ページ目。

 

 

関ジャニ∞ - 生きてる僕ら[STUDIO SESSION]- YouTube

https://youtu.be/G9dZL4tbBoM?si=G9qWeHQrA0bvIwms

 


2023年9月22日