今夜の花火終わるまで

関ジャニ∞が好きな人のただの日記です。

関ジャニ∞の凛は誰に向けて歌われているか

 

 

関ジャニ∞「凛」。

 

全員の力強いコーラスをバックに、一人ずつゆっくりと目を開くシーンから、この曲のミュージックビデオは始まる。神聖で、厳かで、少しの迷いや揺らぎも感じさせない。息を飲むような、その名の通り「凛」とした空気が漂っている。映像はモノクロで、この時の関ジャニ∞が纏う色は、ピンと背筋が伸びるような、目標を見据えて震えるような、高鳴る心を写した「白」だ。FUJI Network.Song for Athletesとして起用され、フジテレビのスポーツ番組や、オリンピック中継で耳にする事が出来るこの曲。これは、誰に向けて歌われている曲か。この問いに単純明快に答えるとしたら「アスリートの方々」で間違いはない。オリンピックのこの時の為に、この一瞬の為に日々を積み重ねて来たアスリートの方々である事に、何の間違いもない。しかし、完全にそれ以外は無いと、そう言い切れるだろうか。この曲は、この歌詞は、アスリート以外の他の人へも向けられた側面は本当に無いか。関ジャニ∞は、誰に向けてこの歌を歌っているのか。歌詞を見ながら紐解いていきたい。

 

 

 

語られる事のない物語がある

笑顔の裏に隠した孤独がある

 

メディアで取り上げられるのは、オリンピックという大きな舞台に上がる事ができた、ほんの一握りの選手の、ほんの一瞬の人生だけだ。その場所で勝負に挑む事ができた人の功績は多くの人の目に触れ、その人が今まで歩んできた過程、出会ってきた人、今後の目標が多くの人の耳に入り、物語は語られ続けていく。その裏で、惜しくもその場所まで辿り着くことが出来なかった人達の物語もまた必ず存在し、舞台に上がることが出来ても目標に届かなかった人、目標に届いてもそれまでの過程の中で挫折を経験した人、人の想いの数だけそこには物語がある。輝かしい場所で、人の目に触れることのない物語は確かに存在し、華やかに映り笑顔に見える誰かの、背中に隠された孤独は密かに息をしている。

言葉の意味通り受け取るとしたら、その始まりは紛うこと無きアスリートの方々へ向けられた歌詞である。ではもう少し広義的に解釈してみる。

もしもこの曲がオリンピックとは別の時期に世に出ていたとしたらどうか。スポーツの世界で戦う人だけじゃなく、日常生活の中で仕事や勉学や目標に挑み、自分や他人と真正面からぶつかり、向き合い、日々を懸命に生きる誰かに向けても、この歌詞の言葉は当てはまらないだろうか。誰しも語られる事のない物語があり、日の目を見る事はない、そっと後ろ手に閉まっておきたい人生のどこか一瞬が必ず存在するのではないか。

 

ただゴールを見つめ 凛と立つ君よ

光と影を抱いて 一筋の風になれ

 
誰にとっての、何のゴールとは一切明言されていない歌詞。「ゴール」とは具体的に一体何を示すのか。人の数だけゴールの定義がある。何かを成し遂げる事なのか、今あるものを維持する事なのか、誰かの成長を見守る事なのか。そして、誰のゴールか。アスリートの方々にとってのゴールでもあり、今何らかの目標を抱えている誰かにとってのゴールでもある。受け取り手によって様々だ。

安田くんが歌いながら「凛と立つ君よ」でカメラを指差した。「君」とは、今大きな舞台に立とうとしている選手達の事でありながら、このミュージックビデオを見ているあなたの事なのかもしれない。カメラの向こう側にいる「君」の定義は無限大であり、そこには何億通りに異なる人生を生きる「君」がいる。

 

 壁の前で立ち尽くす度 迷いながらも戦ってきた

僕らなら何度だって超えて行けるさ いざ前へ

 
ここで、歌詞の視点が大きく変わる。今まで「物語がある」「孤独がある」と広く普遍的な(誰にでも当てはまる)世界観だったものが、ゴールを見つめ凛と立つ何処かの「君」へ向けたものになる。そして、続く歌詞にある「迷いながらも戦ってきた」のは誰か。ここから歌詞の主語が「君」から「僕ら」へと大きく変換を見せている。大きな壁を前に立ち尽くしてきたのは、迷いながらも戦ってきたのは、「君」だけじゃない、「僕ら」も同じだと。そして「君」も「僕ら」も何度だって超えていけると。主語が入れ替わるというよりは、主語の範囲が広がっていく印象。君も僕も同じであり、手を繋いで戦ってきた仲間だと歌っている。特定の、たった一人の「君」に向けてのエールは、この主語の拡大によってこの曲を歌う「僕ら」と、この曲を聴く不特定多数の「君」への最大級のエールへと形を変えていく。

 

その情熱が その絆が 今力に変わってく

願ってたような 未来じゃなくても

勝ち負けじゃない だけど伝えたい

命の火を燃やして

加速していく 姿は美しい

 
関ジャニ∞が歌で紡ぐ、圧倒的なエネルギーを持った言葉達。誰のどのような情熱で、誰と誰の絆とも明言していない。誰にでも当てはまるような広い捉え方ができる歌詞なのに、決して浅く薄く聴こえない。普遍的でありながら、ピンポイントで「誰か」を歌っているように聴こえる。戦うアスリートの方々にも、日々を生き抜く他の誰かにもこの歌詞は当てはまる。関ジャムでもよく言われている「誰にでも当てはまるような歌詞でありながら、この歌は自分の事を歌っていると思わせる事が大切」だという事。その通りだと思わせられるサビ。

この夏、文字通り命の火を燃やして、勝ち負けじゃなくもっと大きな何かを通して、大切な事を教えてくれるアスリートの方々の中にも、そのアスリートの方々を支え続けてきた人の中にも、テレビを通してエールを送る人の中にも、自分の中の目標に向けて違う場所で戦う人の中にも、同じ熱量が宿る歌詞。これって、巨大でありながら人の心を打つ、至極繊細な、物凄いエールソングなのかもしれない。

 

走り続けていく 君の姿は

何故にこんなに僕らの 胸を打つのか

繰り返すエールが 涙に変わっていった

忘れてた何かが溢れ出した

同じ空を見上げた


そして、これは個人的な解釈に過ぎないが、関ジャニ∞が誰かに向けて応援歌を歌う時、巡り巡ってそのエールが関ジャニ∞に返って行く気がしている。オリンピックという大きな舞台で戦うアスリートに向けて関ジャニ∞が歌う「走り続けていく君の姿は何故にこんなに僕らの胸を打つのか」は、私達が関ジャニ∞に常日頃から感じている事そのままだ。関ジャニ∞がアスリートの方々に向け送ったエールは「凛」という曲になり、テレビを通してアスリート自身や観ている聴いている者に響き、「凛」は私達の応援の言葉の代わりとなってくれる。「頑張れ!」を代弁してくれる。そして、大きな舞台にこの歌をそっと添えた関ジャニ∞の走り続ける姿もまた、同じように私達の胸を打つ事に気付く。関ジャニ∞のエールは、届くべき「君」へ届いた後、巡り巡って関ジャニ∞へと立ち返っている。

 

その情熱が その絆が 今力に変わってく

願ってたような 未来じゃなくても

勝ち負けじゃない だけど伝えたい

命の火を燃やして

加速していく 姿は美しい

見果てぬゴールは 新たなスタートライン

 
大サビでモノクロだった画面に鮮やかな色がついて、ここから曲調は加速の一途を辿る。全員の力強いユニゾン、普段滅多と見せる事のない雛ちゃんの自然に溢れ出した涙、安田くんが所々に織り交ぜてくれる手話に近い振り付け。いつも思う。関ジャニ∞が歌う応援歌は、関ジャニ∞にしか歌えないものだ。応援歌は、一方通行ではいけない。矢印が受け手に届かず、弧を描いて飛んで落ちた先が誰もいない地面では、いつまで経っても独りよがりで終わってしまう。けれど関ジャニ∞の応援歌は、高い音をたてて青い空に打ち上がったホームランボールのように、空高く弧を描いて飛び、遥か遥か遠くへと届く。セットも何もない、極限までシンプルにしたミュージックビデオと、余分なものを全て削ぎ落とし包み隠さない熱量が直に感じられる歌詞。アスリートの方々に花を添える為に生まれたこの「凛」という、まだ何色にも染まっていない真っ白な曲が、アスリートの方々だけでなく、この曲を聴いた者全てに等しく「関ジャニ∞のエール」が届けている。誰かに届いて初めてこの曲に色がつく。そういう歌を関ジャニ∞は歌っているのだと思う。


関ジャニ∞にとっても、これから挑戦していきたい「見果てぬゴール」が幾つもあるのだと思う。でもそのゴールテープを切ったら終わり、ではなく、それは新たなスタートラインに立つ事を意味する。誰かにとっての挑戦は、関ジャニ∞にとっての挑戦は決して終わる事はない。立ち止まらない。走り続ける。この曲は誰に向けて歌われているか。冒頭の問いをもう一度思い起こす。「凛」という、今日もどこかで頑張る誰かへ届くようにと空高く打ち上げられた白球は、関ジャニ∞自身へも届く応援歌なのだと思えてならない。

 

関ジャニ∞ - 凛 - YouTube

 
安田くんがミュージックビデオの最後、頭上に向けてスターターピストルを放った。位置について、よーい、ドン。

この「凛」という曲を聴いた「君」にとっての、「私」にとっての、「誰か」にとっての、そしてこれを歌う「関ジャニ∞」にとっての、始まりの合図が鳴った。